ゼロ戦 2012 9 9

書名 零の遺伝子(文庫版)
著者 春原 剛  新潮文庫

 F35戦闘機は、最後の有人戦闘機と言われます。
今後は、無人戦闘機の開発が主流になっていくでしょう。
 今でも、最新の戦闘機は、
運動性能が飛躍的に向上しすぎた結果、
訓練を重ねたパイロットでも、
その運動性能に耐えられない可能性があります。
 昔のパイロットからみれば、
最新の戦闘機は、不自然にも見えるような飛行が可能でしょう。
つまり、飛行機としては、不自然な飛び方ができるかもしれません。
 このように書くと、一般の人には、
抽象的でわかりにくいかもしれません。
 最近、遊園地には、
極めてスリル満点のジェットコースターがありますが、
現代の技術では、もっと過激なジェットコースターを作ることができます。
 しかし、もはや、それに乗る人間が耐え切れないと思います。
いくら訓練しても、人間には限界があるでしょう。
 戦闘機も、あまりにも運動性能が飛躍的に向上しすぎた結果、
どんなに訓練を重ねたパイロットでも、
耐えられないということがあり得るのです。
 もちろん、それでも、アメリカ空軍は、
有人の戦闘機にこだわり続けるでしょう。
 空軍のパイロットは、誇り高き人種ですから、
空軍基地で液晶モニターを見ながら、
無人戦闘機を操作するというのは「耐えられない」でしょう。
 そういうわけで、案外、日本の方が、
アメリカよりも、無人戦闘機の開発において先を行くかもしれません。
 もちろん、アメリカ海軍も無人戦闘機には興味があるでしょう。
空母の艦載機のパイロットは、パイロットとしての寿命は短いでしょう。
 あれは「人工的な墜落」と言えるでしょう。
空母への着陸(着艦)は、「人工的な墜落」に近いものがあります。
このような過酷な環境では、パイロット人生は短くなるでしょう。
 しかし、優秀なパイロットの養成は、巨額の予算がかかります。
さらに、優秀なパイロットを維持することにも、巨額の予算がかかります。
その上、国防予算の縮小が予想されます。
 こうなると、アメリカ海軍としては、
空母では、無人戦闘機を考えざるを得ないでしょう。
 さて、無人戦闘機という考え方が出てきたのは、別の理由もあります。
精密な攻撃が可能となったのです。
 目標に対する精密な攻撃が可能であれば、
大型の機体に大量の爆弾やミサイルを搭載する必要がないのです。
つまり、機体は小型化できるのです。
そうなると、無人でコンパクトな飛行機を造ることになるでしょう。
 21世紀の現代に、ゼロ戦は甦るか。
いや、「零式戦闘機」と呼ぶべきかもしれません。

宇宙兄弟 2012 5 13

書名 宇宙兄弟(漫画)
著者 小山 宙哉  講談社

 この漫画(マンガ)のストーリーは、
子供の頃、兄弟でUFOを見たことから、
二人とも宇宙飛行士を目指すというものです。
 順調に宇宙飛行士になれた弟と違って、
兄は、回り道、挫折、失敗を経験しながら、
宇宙飛行士を目指すのです。
 同時に、宇宙飛行士の選抜試験をめぐる、
様々な人間ドラマが描かれています。
 さて、現実世界に戻りましょう。
実は、私は、中学生の頃、学校の帰りに、
毎日のようにUFOを見ていました。
決まった時間、決まった場所に現れていました。
 だからといって、私は、
宇宙飛行士になろうとは思いませんでした。
私は、彼らの技術や文化、価値観に興味を持ったのです。
 時々、このサイトで、
無人戦闘機など無人飛行機のことを書いていますが、
これは、決してアメリカを真似しているのではありません。
 彼らが使っているのを見たのです。
遠くに大きなUFOが飛んでいったと思ったら、
不思議なものが飛んで来たのです。
実に奇妙な形だったのです。
最初は、ラジコン飛行機かと思いましたが、
全く無音で、空中を滑るように動いていました。
これが彼らの無人機だったのです。
 さて、話題を変えましょう。
こんなことを書くと、動物愛護協会から抗議されるかと思いますが、
他の星では、特殊な動物型生体ロボットというものがあります。
(注意 ここでいう「他の星」とは、無人機を飛ばした宇宙人とは別の星です)
 これは、ロボットを動物の形に作るのではなく、
生きている動物を改造して、半分生物・半分ロボットにするものです。
 ロボットで動物を作るのは、技術的に極めて困難ですが、
生きている動物の体を利用して、
半分生物・半分ロボットにするのは、技術的に困難ではありません。

学問のすすめ 2011 10 10
 人生の秋において思うことは、
「もっと勉強しておけばよかった」ということです。
好き嫌いなく、あらゆる分野に精通している必要があったと思います。
もう失われた時間は取り戻すことができない。
 今でも、時々、少年の頃を思い出します。
あれは、今から数十年前、かなり遠い記憶です。
今だからこそ理解できますが、
インターネットの技術を教わったのは、40年近く前だったと思います。
 しかし、少年の私には理解できなかったのです。
しかも、あの時代の通信技術は、電話と電報だけでした。
FAXはあったかもしれませんが、庶民は見ることはできませんでした。
 あの頃の私には、それが漁業で使う投網のイメージ以上の理解はできなかったのです。
「投網のようなものが、どうして通信技術と関係するのか」と思ったことでしょう。
 どんなに高度なインスピレーションでも、
受け手である本人の能力の限界を超えることはできません。
そして、蓄積された知識も、本人に能力がなければ、
それを取り出して使うことはできません。
 禅の言葉に、
「そっ啄同時」(そったくどうじ)という言葉があります。
(漢字は、へんが「口」で、つくりが「卒」となります)
 卵の殻を雛が内側からつつくことを「そつ」と言います。
同時に、親鳥が外側から殻をつつく「啄」よって、
卵の殻が破れて、中から雛が出てくるのです。
 未来には希望があります。
やがて、若者の中からインスピレーションと学問を同時に習得した天才たちが、
次々と現れてくるイメージがあります。
その時、私は老兵となって消えていくでしょう。






















































































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